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大澤良貴氏の記述を転載

漢帝国滅亡の直接の引き金を引いたと言っても過言ではない、184年に勃発した太平道の乱。いわゆる黄巾の乱ですが、太平道が計画していた国家転覆計画の戦略性の高さに驚かせられます。

この乱において太平道は184年の2月に青州、徐州、豫州、幽州、冀州、荊州、揚州の八つの州で一斉に蜂起していますが、これだけでも当時の交通、通信手段を考えれば驚くべき、「同時多発」ぶりではないでしょうか?なにしろ正規軍ですら「軍隊が多方面から同時に行動する」という事自体が困難であった時代であり、後に曹操、司馬懿、諸葛亮などが、なんとか試そうとして上手くいかず、鐘会の時代になってようやく多方面での侵攻作戦が可能になったというような時代です。

いったい、どうして彼らが同時多発蜂起可能にしたのか?まず一番わかりやすい機密として、彼らの掲げたスローガンが挙げられます。

「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」まさに184年の甲子の年に蜂起する事を予言にみせかけたメッセージとして彼らは信者たちに周知させ、さらに貧困や天災、不安定な政情などで不安定になっている人心に「甲子の年に何かが起こる!」と期待感を煽っていたわけです。彼らが一斉に蜂起し、その勢いが瞬く間に広まっていったのも、信者たちの意思の統一、民衆たちの期待感などで、十分に布石が打たれていたわけです。

(追記に続く)

日本の国書に激怒した皇帝の墓所を特定とある。
前書きは、聖徳太子の時代も今も変わらない。
http://bit.ly/1b2OOug

********************
煬帝の墓所が確定というのは、考古学的には大発見の一つと言ってよいのではないだろうかと思う。それによって、更になにか考古学的な発見が進めば喜ばしい。

個人的な感想だが、過去に支那大陸に存在した政権が現在の中共政権よりもマシか?と聞かれれば、うなずけるものではないので、住みたいか?と聞かれれば、もちろん「NO」である。
思想・哲学的には、胡散臭いものがたくさんある中から、淘汰され、韓非子などの法家などが生き残った事を考えれば、春秋戦国、諸子百家の時代は、民衆にとっては大迷惑ながら、政治の実験としては一定の成果を挙げ律令制などの当時としては先進的な制度を作り上げていった点は評価に値する。

そう歴史について、ぼーっと思いをはせつつ、「歴史」というキーワードしかつながりの無いことで、ふと思いついた事がある。

追記に続く

先日の橋下発言が炎上しているわけですが、ねおちは基本的にはあの発言が問題だとは思ってません。
ただし、政治家の発言としては直球すぎるだろう?とは思うが、ねおちは政治家でもないので思ったことをそのまま書きます。

先日の記事ともかぶりますが、慰安婦問題について日本だけが軍の性処理の為に利用していたのだろうか?っていうと、まったくそんなことはない。米軍、イギリス軍は私娼を利用していたし、ドイツ軍は日本軍以上に公娼施設数がおかった。ソ連軍は相手国の婦女も戦利品とみなしレイプを公認していた。韓国は在韓米軍の為の慰安婦を設置していたことは事実。
ベトナム戦争では米軍と行動を共にした韓国兵による現地人への暴行の結果、多数の混血児が残され暴行の後に証拠隠滅だったのかわからないが民間人を虐殺してる事例も多数ある。

戦後、日本を占領下におき進駐軍として駐留していた米軍兵による民間人への暴行事件(民家に押し入ってレイプを行った事例も含む)も多数起きているし、日本に多数の売春宿も設置させてたけど、米国政府は謝罪と倍賞なんてしてないよね。(そもそも訴訟もしてないみたいだけど)。
敗戦後に引き上げてくる日本の民間人がロシア軍や韓国軍、中国軍の兵士にレイプされた事件も多数発生してる。
戦勝国だからいいのか?

別に他の国もやってるじゃないかってことで責任を回避しようと言っているのではないし、正当化しようというのでもないが、自分らもやってきたことを棚上げして日本だけを責める態度はフェアじゃないんじゃないか?って事だね。
追記に関連資料とか文献、個人の記述などをまとめてみました。

追記に続く
竹島問題で世間が騒がしくなっていますね。

日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書)
一昨年くらいだったかなぁ?たまたま書店で見かけて購入。
何度も読み返してる本の一つで、このところまた読んでます。

著者:室谷克実(むろたに かつみ)
1949(昭和24)年東京生れ。慶應義塾大学法学部卒業。時事通信社入社。政治部記者。ソウル特派員。宮崎、宇都宮支部各支局長。「時事解説」「時事評論」「地域づくり」各編集長。
2009年定年退社。主な著書に『「韓国人」の経済学』『朝鮮半島』。

帯の記述より
古代日本は朝鮮半島から稲作などの先進文化を学び、国を発展させてきた―――という<定説>は大嘘である。半島最古の正史『三国史記』には、新羅の基礎を造ったのは倭人・倭種、中国の『隋書』には、新羅も百済も倭国を文化大国として敬仰していたと明記されているのだ。日韓古代史の「常識」に異議を唱え、韓国の偏狭な対日ナショナリズムと、日本のあまりに自虐的な歴史観に歪められた、半島史の新常識を提示する。

司馬遼太郎の小説「大盗禅師」によると、由比正雪の口癖だったそうだ(事実かどうかは別)。
もう何度目になるか忘れたけど、近頃また読み返している小説です。
時代は慶安年間。徳川3代将軍家光末期~4代将軍家綱初期の頃に起きた慶安の変の話。

関ヶ原から約50年。大阪の陣(冬>夏)から約30年。戦争はなくなったとはいっても、世情はかなり不安定であったようだ。徳川幕府が自分を守ろうとしてやってきた政策が原因で巷に大量に溢れた浪人問題(研究者に拠るが25~50万人と言われている)が顕著だった。
自分で自分の首を絞めているようなものだったように思われる。

九州のある大名(または公卿の誰か)の落胤という設定で、世に溢れる不満分子や浪人を糾合して幕府転覆を図る大濤禅師、住吉の漁村で生まれた豊臣方の足軽の息子「浦安仙八」と駿河の紺屋の子「由比正雪」を中心に、生涯を「反清復明」にささげた「鄭成功」とその使者の道士「蘇一官」を中心に、出羽の生まれで長曽我部盛親の落胤と自称する丸橋忠弥などが絡み小説は進んでいく。
住吉の漁村から始まり京都・大阪、江戸、五島列島、福建省と話のスケールはなかなかに大きい。

憂国の軍学 由比正雪によると、「駿州の紺屋の生まれ,由比正雪は,17才の時、シャムヘ渡った山田長政が、反乱軍を鎮圧した功績によって国王から,大守に任ぜられた偉業を知り,胸が張り裂けんばかりの感動を覚えた。これが切っ掛となり、多情多感な青年,由比正雪は、元和8年(1622)大きな夢を抱いて,江戸へ」飛び出したとされている。小説の中では「太閤記」から秀吉が尾張中村の草莽から立身し太閤にまでなったという事を知って衝撃を受け大きく影響を受けたとされている。

山田長政は実在の人物で、これもwikiの記述から抜粋してみると
「出生は駿河国の駿府馬場町とされるが、伊勢や尾張とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った[1]。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を著しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となった。アユタヤー王朝の国王・ソンタムの信任を得て、第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック(ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利を得た。」

幕府不満の弾圧に利用された由井正雪の叛乱計画によると、慶安の変自体が半分やらせのような性質のものだった。つまり、幕府内の若手官僚と武断派大名との確執に浪人問題が利用されたのだと言っている。
この著者については私は知らなかったので、一応確認してみた。
童門冬二
童門 冬二(どうもん ふゆじ、1927年10月19日 - )は、日本の小説家。勲等は勲三等。本名は太田 久行。
歴史小説に志を持つようになったのは小学生のころで、歴史を教わった教師から少なからず影響を受けた。 「歴史はすべて、人間のドラマだ。神話もこの例外ではない」と教わり、当時の「教育」(戦前教育)とは一味違ったその教え方に、周りの友人たちと「こんな教え方でいいのだろうか」と驚いたらしい。 また、歴史を「死体解剖する」のではなく「生体解剖する」という歴史観を持っており、そこから繰り出される独自の世界観を持つ。また、歴史を「360度方位から光を当てることのできる多面的な存在だ」と語っている。
歴史小説家であるらしい。どこまで史実に即した話なのか判断はできないが、そういう見方もあるのかと思わされる話ではある。

司馬氏は小説中で正雪に「どんなに優れた才質がある人間でも、敬って担ぎまわるものがいなければ世間にはその者の偉さがわからない。虎を虎と見せるのは、虎ではなくそれを怖れる兎がいるからだ」そしてそのようなことを指して「世間が思う権威というものは錯覚にすぎないのだ」などと面白いことを言わせている。これは正雪の口を借りた司馬氏の言葉であり、真理の「ある一面」だと思わされる。

「人ノ一生トハナニゴトナランヤ」
そんな由比正雪が昼間の絢爛さとは打って変わって、夜、疲れ果てた顔で一人酒を飲む時にポツリと口にしていたと言う。単純でありふれた言葉でありながら、彼の歩みや末期などを見ていくと、深読みしたくなる余地があると同時に、自分の現在を省みて「人ノ一生トハナニゴトナランヤ」と口にしてしまいそうになる伝染性のある言葉だと思ってしまった。
数年前に買った本でいまだに何度も読み返しているものがいくつもある。
その中の一つで「古代史の秘密を握る人たち」(関裕二著、PHP研究所刊)というものがある。
これは、電車に乗る間の時間つぶしにしようと思ってコンビニでなんとなく手にとった本なのだが、通説とは異なる視点から展開されていてなかなか面白い。
歴史に興味のある人なら目次のタイトルだけでもどんな内容なのか気になるところなのではないだろうか?

目次
第一章 古代史の秘密を握る人たち
・祟って出ていた蘇我入鹿
・古代史のすべての秘密を握る藤原不比等
・天皇家以前のヤマトの王・ニギハヤヒ
・独裁権力と戦った葛城氏
・日本的な改革事業を目指した聖徳太子
・中臣鎌足は百済からの渡来人だった
・日本のラスプーチン、道鏡

第二章 異色の天皇列伝
・二人いたハツクニシラス天皇
・独裁権力を欲した雄略天皇
・謎に満ちた継体天皇
・骨肉の争いを演じた天智天皇と天武天皇
・鬼の帝・聖武天皇

第三章 時代の転機に出現した女傑たち

・・・

その中で今回の内容は、第一章の「中臣鎌足は百済からの渡来人だった」について。
この件で他のサイトでもエントリーがあったので引用してみよう

藤原鎌足は百済王子の豊璋? 関裕二説

(前略)
<鎌足説:関裕二「古代史の秘密を握る人たち」より>
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=193608引用
 中臣鎌足の謎は、歴史に唐突に現われ、しかも、白村江の大戦のさなか、中大兄皇子の前から忽然と姿をくらましたことだ。
1)白村江の戦いは、百済復興しようと唐と新羅の連合軍と戦火を交えた、いわば中大兄皇子の一大事。天皇家と百済は密接につながっており、民衆の反発を強行しての無謀な遠征でもあった。その一大事に乙巳の変以来の右腕である中臣鎌足が姿をくらまし、敗戦後、ひょっこり再登場する。いったい、この男はどこで何をしていたのか?

2)「日本書記」をひも解けば、中臣鎌足出現の直前、百済皇子・豊璋は631年に人質として来日、660年に百済がいったん滅亡したのち、王朝復興の気運の高まりの中で、百済から呼び戻され擁立される。そして、白村江の戦いで百済王朝は滅亡、豊璋も行方をくらましてしまう。豊璋が百済に舞い戻っていたちょうどそのとき、中臣鎌足が「透明人間」になったのははたして偶然なのだろうか

3)冠位「織冠」を与えられたのが鎌足と豊璋のふたりだけだった、という「日本書記」の証言も気になる。

4)また、壬申の乱で百済派(中大兄皇子=天智天皇の息子である大友皇子)が敗北し、新羅派(天武天皇)が王権をとってから、藤原不比等が完全に干されている事実も見逃せない。
中臣鎌足が百済皇子・豊璋であった疑いは強くなるばかりだ。
(後略)
※強調、引用URLへのリンク付けは引用者


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白村江の戦い(はくすきのえ、はくそんこう)

このような点から、鎌足=豊璋説が展開されていきます。
奈良県桜井市多武峯(たとうみね)の談山(たんざん)神社に祀られているが、神としてではなく官職名である「織冠(しょっかん=総理大臣みたいなもの)」として祀られている。

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談山神社の藤原鎌足像

また、奈良周辺に藤原氏関連の寺社で百済寺というものもあり、藤原氏と百済との関連の深さを感じさせる
(注意)聖徳太子が開山とされる百済寺とは別

これに関連して更に面白い話がある

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」という国書を隋の煬帝に送ったことでも有名な聖徳太子(日本書紀を含め生前に「聖徳太子」と呼ばれたことは一度もない)が、日本に律令制度を導入しようとした改革事業を引き継ぎ完成させたのは、本当に中大兄皇子と中臣鎌足だったのか疑問であるっていう話。
ちなみに、中大兄皇子は推古天皇34(626)年、推古天皇(=聖徳太子が摂政をしていた)の甥の子にあたる田村皇子(のちの舒明天皇)と母・皇極天皇(斉明天皇)の子である。

疑問を呈する関氏の根拠というのが
・聖徳太子は蘇我系の皇族であった(叔父が蘇我蝦夷)
(同氏別書によると、聖徳太子=蘇我入鹿)
・蘇我氏はそれ以前の百済一辺倒な外交に固執しておらず、百済に固執してたのは中大兄皇子と中臣鎌足だった
(白村江の戦いなどは特に著名)
・中大兄皇子は孝徳天皇と不仲であり、孝徳天皇(=軽皇子、蘇我系)が難波宮で改革事業を進めていた時期には遠く離れた奈良県橿原市付近にある自邸に引きこもっていた
・中大兄皇子が実権を握ったのは母の皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明天皇となった後のことで、この時に白村江の戦いを引き起こしている
・乙巳の変の後に自分が即位しようとした中大兄皇子を中臣鎌足が「民衆の望むように、軽皇子の即位を認めたほうが得策」と引き止めた
(改革者の蘇我氏を潰したから人気がなかったのでは?という推測。不評を買っていたのは事実)

乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿というのは実は聖徳太子であったことになると、本書の内容とはちょっと異なるが改革事業を潰して既得権益を守ろうとしたのは実は中大兄皇子と中臣鎌足だったという説を補強するものになり、藤原氏が祟りがある毎に法隆寺を気にし続けた理由も納得がいく。

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談山神社にある多武峰絵巻より
板蓋宮(いたぶきのみや)における暗殺の場。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足。
奥のほうにいる女性が中大兄皇子の母である皇極天皇。


また、皇極天皇が舒明天皇の后になる前に高向王(=本書では蘇我入鹿と同一人物と見ている)との間に漢皇子(あやのみこ)をもうけているが、漢皇子=大海人皇子=天武天皇だった可能性についても指摘している。
通説では、天武天皇は天智天皇の弟となっているが天武天皇の方が年上だったという異説もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

そして天武天皇の時代に干されていた藤原不比等(ふひと、=鎌足の息子)が天武天皇崩御の後、強引に即位した持統天皇(=鸕野讚良(うののさらら、うののささら)、天智天皇の娘にあたる)の元で重用されたのも天智天皇(百済系)vs天武天皇(蘇我系)の暗闘が背景にあったと洞察している。

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藤原不比等 出典asahi.com

そもそも正史とされている日本書紀は、作成を命じたのは確かに天武天皇であったが、完成したのは持統天皇が崩御した後のことであり、その中心人物は藤原不比等であったのであるから、父である鎌足の悪行を隠蔽し歴史を捏造改竄した可能性が高いことも指摘している。
そして日本書紀は、天武天皇のためにかいたと言いつつ実は持統天皇のためにかかれたものであると思われるフシがあるのである。


かぐや姫
有名な竹取物語であるが

竹取物語には実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の公達のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。また、車持皇子のモデルは藤原不比等[6]、石作皇子のモデルは多治比嶋[7]だっただろうと推定されている。この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台に設定されたと考えられている。
主人公のかぐや姫も、垂仁天皇妃である迦具夜比売(かぐやひめ、大筒木垂根王の女)との関係や、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることから豊受大神との関係について論じられることもある。


豊受大神神功皇后と同一視する説もある

この中でも車持皇子(くらもちのみこ)についてであるが

江戸時代の国文学者・加納諸平は『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が、『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。しかし物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人を連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子は、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある[8]。



作者は不詳とされているが現在では紀貫之ではないかと言われている。
紀氏考

紀氏は「記紀」上では元々 天道根命又は御食持命を祖とする「神別氏族」である。
宇遅彦命の時、紀国造となりその妹「山下影媛」が8孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命の妃となり、その間に「武内宿禰」が産まれたとされている。
この武内宿禰が、宇遅彦の子「宇豆彦」の娘の「宇乃媛」を妃として、紀(木)角宿禰が産まれた。
これが、外家紀氏の姓を嗣いで「皇別氏族」として中央政界で軍事氏族として活躍する「紀氏」となった。
これが紀氏の祖は、武内宿禰であると言われる由縁である。


蘇我氏の開祖である武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖としていることから、この紀氏も実は蘇我氏の遠戚にあたるらしい。(異説あり)

蘇我氏関係ではなくとも応天門の変(貞観8年、866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯があり、それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性があると言われていることも竹取物語の作者と目される一因となっている。

余談
政府の闇(軍産複合体による世襲)
ちょっと政治色の濃い内容なんだけど、藤原氏関係については事実なのでその部分だけ引用しておこう。

明治天皇にしても、西郷隆盛公にしても、先住民的な顔立ちをしているものの、やはり藤原氏の血を引いている事は否定できない。もちろん南朝系だけど。例えば、西郷隆盛公は南朝の忠臣・菊池藤原氏の末裔だし、明治から戦中までの元老・西園寺公望翁は後醍醐天皇の母后や后妃の一族・西園寺藤原家の血筋だし、大正天皇の后妃は鎌倉幕府(南朝の大江氏を招いた)と近かった九条藤原氏の子孫といった具合なんだ。

表からは退いたけど細川護煕氏は近衛藤原氏と細川源氏の血を引いている。まぁ、西園寺藤原氏と近衛藤原氏については、特に言う事はない。むしろ彼らを「君側の奸」と断じた軍人・右翼のやり口こそ侵略者・騎馬民族的だ。


近現代においてすら藤原氏の影響力がとても強いのです


解説からの引用が多くなってしまったけど、やっぱ歴史は面白い!!


先日は北条早雲についての覚書を作ってみたわけですが、本日は齋藤道三についての覚書でも作ってみます。
ところで、現在ではサイトウという場合いくつかの標記があますが代表的な4つについて何が違うんだろう?というそもそもの疑問があり、ちょっと調べてみた。

斎藤と斉藤(齋藤と齊藤)は別の字

「斎(齋)」は「サイ・シ/ものいむ・つつしむ」と読み、「齊の省文と示とに従う」もので、「祭卓の前に奉仕する齋女の意を示す」。
「斉(齊)」は「セイ・シ・サイ/ととのう・ひとしい・つつむ」と読み、その形は、「祭祀に奉仕するときの婦人の髪飾り」である。
以上が白川静の説明である。補記する。
「斎」は、「斎戒沐浴」「書斎」「斎宮(さいぐう・いつきのみや)」などと使われる。
「斉」は「均斉」「一斉」「斉唱」 など、また中国の列国期の国の名称であり「斉東野語」「斉東野人」。いずれも「セイ」と読み、「斉藤」の場合「サイ」と読む。


別な解説を見てみると違うことが書いてあった
「齋藤」「斎藤」「齊藤」「斉藤」“サイトウ”姓がこんなにある理由

「4種類の“サイ”に関して、原初は“齋”だと考えられています。それが簡単な字で誤用されてしまったものが“齊藤”。そして戦後、それまでの漢字を簡略化した“新字体”が作られました。その2種の新字体がそれぞれ“斎藤”と、“斉藤”なんです」(系譜・古代史について研究しているHP“古樹紀之房間”主宰者・樹童さん)

齋藤(旧)→斎藤(新)、齊藤(旧)→斉藤(新)で、4種類ってことですね。

「また“藤”に関してですが、“○藤”姓は、平安時代の貴族・藤原氏が、職名や地名に“藤”を足してできたといわれています。“斎藤”は、伊勢神宮の役職“斎宮頭”+“藤”=“斎藤”なんですね」
(同)


んー、、、文字一つとってもよくわからないものです ( *´艸`)クスクス

と、いきなり余談から始まったわけですが、本題の齋藤道三についての資料を集めてみましょう。

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通説
故・司馬遼太郎氏の「国盗り物語」(全四巻)でも有名な話ですね。
この小説自体は、ほんと単純に言うと「道三から信長への思想の継承」のような立場で纏め上げられています。
簡単に通説をまとめてくれてる斉藤道三〔1〕からの引用(短いので全文)

 「美濃のまむし」斉藤道三というより、はるかに、まむしの道三の方が通がよい位、恐ろしい男であった。
 戦国大名として、これ位謎の多い人物も少ない。
 一使いの油売りから澪起こし、美濃一国の主となり、娘を織田信長の室にし、天下にその名を「まむし」と呼ばせても、残酷無情、権力欲、野望のためなら何でもやる、一種異様な人物である。

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 一介の油売りからというと、大変身分の低い事になるが、けっしてそうではない。
 祖先代々御所を譲る、北面の武士であるが、父松波左近将監基宗は、故あって山城国乙訓郡西岡に住でいる時、道三は生れた。
 顔立ちのよい利口な少年であった。11歳の時京都日蓮宗妙覚寺には入り、法蓮坊と呼ばれ、兄弟々子に南陽房〔後の日蓮上人〕は美濃国守護土岐家の重臣、永井利隆の弟である。
 道三には寺の生活は性に合わず、読経なんかより先ず金であった。
 寺を飛び出し、生れ故郷の西岡に戻り、油商奈良谷の養子となり娘と夫婦、名を山崎屋庄九郎〔庄五郎〕と改め、油の行商をした。
 油行商で各国を巡り、販売にも才覚をあらわし、曲芸まがいの事をして、人を集めて多いに売りまくった。
 四角のヒシャクで油〔灯油〕を汲み、ジョーゴを使わないで、一文銭の穴から壺に入れる。油一滴も、一文銭の穴に付かない、その曲芸を見たくて、買人が列をなしたという。
 その美事な芸を見た武士が「これ程の芸を武芸に打込んだなら、立派な武芸者に成れる」と賞賛したからたまらない。 
 道三は、油売等投げ出して、それからは毎日一文銭の穴を的に、長柄の槍で突く練習を一所懸命に励み、相当の腕になったので、件の武士と、寺で知り合った日蓮上人に頼み、守護代長井長弘に仕える事になった。武士となった道三は、長弘の家臣西村氏の名跡をついで、西村勘九郎正利と改名、めきめきと「美濃のまむし」の本領を発揮して行く事になる。



近年の研究成果
通説では道三一代で美濃(現岐阜県)を奪い取ったとされてきたが、どうやら親子二代での成果だったという説が説得力もあり有力視されている。
以下は、wikipediaの斎藤道三よりの引用となります

1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。
1.斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
2.新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
3.新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
4.義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
5.道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。

同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていたいわゆる「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の二代にわたるものである可能性が非常に高くなった。父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見える。


また次のような記述もある

大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。さらに、天文2年の文書に藤原(長井)規秀の名が見え始めることから、道三が父から家督を相続したのはこの頃と推定されている[7]。 また公卿三条西実隆の日記にはこの年、道三の父が死去したとある。同年11月26日付の文書(岐阜県郡上市の長瀧寺蔵、岐阜市歴史博物館寄託)では、長井景弘との連署であり、道三が長井長弘殺害の際に長井氏の家名を乗っ取り、長弘の子孫に相続を許さなかったとする所伝を否定するものである。また、長井長弘の署名を持つ禁制文書が享禄3年3月付けで発給されており、少なくとも享禄3年正月の長弘殺害は誤伝であることがわかっている。しかし、この文書の後にほどなく景弘は死んだと考えられる。翌、天文3年9月付の文書(『華厳寺文書』「藤原規秀禁制」)では道三の単独による署名(つまり長井宗家を継承)があるためである。それ以降、景弘の名がどの文献からも見あたらないことから道三が景弘を殺害(もしくは急死)したと推定される。道三が殺害したどうかはともかく、道三は長井宗家の名跡を手に入れていれたとされる。



斎藤 道三[利政/秀龍](さいとう どうさん[としまさ/ひでたつ])は、戦国時代の武将。美濃の戦国大名。斎藤氏初代当主。

名としては、法蓮房・松波庄五郎(庄九郎)・西村正利(勘九郎)・長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、良質な史料に現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。また、「秀龍」は、「龍」の字が息子たちの名前にも用いられていることからもこの諱を名乗っていたと考えられるが、その「秀」の字は六角義秀からの偏諱であるとされている。


ここで、ねおちがちょっと気になるのが道三と六角氏との関係です。
なぜかというと、WIKIの記述どおり「「秀」の字は六角義秀からの偏諱である」とするとここに道三または道三の父と六角氏との間に上下関係が成立していた事が伺えるからです。

偏諱授与の風習

偏諱(へんき)は避けるだけではなく、貴人から臣下への恩恵の付与として偏諱を与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて非常に多く見られる。

初めは将軍宗尊親王から北条時宗への偏諱など、下の字につく場合もままあったが、時代が下るにつれて主君へのはばかりから偏諱は受ける側の上の字となる場合がほとんどとなった。

室町時代には重臣の嫡子などの元服に際して烏帽子親となった主君が、特別な恩恵として自身の偏諱を与えることが広く見られるようになった(一字拝領ともいう)。特に足利将軍の一字を拝領することはよく見られ、畠山満家や細川勝元などの守護大名から赤松満政のような近臣にも与えられた。従って、武家において偏諱を授けるということは直接的な主従関係の証となるものであり、主君が自分の家臣に仕えている陪臣に偏諱を授けることが出来なかった。有馬義純が少弐氏との被官関係を残したまま、将軍足利義晴から偏諱を授与されたことが後日問題となった例がある(『大舘常興日記』天文8年7月8日・同9年2月8日両条)。一方で公家でも近衛家・九条家・二条家のように将軍から偏諱を受ける家も現れた。また、室町時代には将軍・足利義政が異母兄(長幼の序の考え方でみるなら上の立場)にあたる足利政知に与えるといったような異例もある。

戦国時代には外交手段として一字を貰い受けることもあった(長宗我部親など)。安土桃山時代には、豊臣秀吉が積極的に大名の子息に「秀」の字を与えている。徳川忠、毛利元、伊達宗、結城康などがそうである。


武家家伝_六角氏

六角氏は近江源氏として名高い佐々木氏の嫡流である。佐々木氏は宇多天皇の皇子敦実親王が子の源雅信の子扶義を養子とし、その扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのが始まりといわれる。
 しかし、佐々木庄には大彦命の後裔といわれる佐々木貴山氏という古くからの豪族もあり、両者の間には錯綜したところがあって、確実なところは分からないというのが実情である。



道三の主筋に当たる土岐氏について

土岐氏(ときし)は、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。本姓は源氏。清和天皇を祖とする清和源氏の一流である摂津源氏の流れを汲む美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた。室町時代から戦国時代にかけて侍所として五職家の一角を占めるとともに美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の3ヶ国の守護大名となった。

土岐氏は美濃国のみならず常陸、上総など関東に点在した他、美濃国内には妻木氏、明智氏、土井氏、金森氏、蜂屋氏、肥田氏、乾氏、青木氏、原氏、浅野氏、深沢氏、饗庭氏、萩原氏など多くの庶流が輩出された。

家紋は水色桔梗紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られる。土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを記念して、家紋としたのが始まりである。「土岐桔梗」と呼ばれている。旗紋としては水色地に白抜きの桔梗紋が使われた。


この様にどちらも由緒ある源氏の家系であり北面の武士の家系とは言え浪人した一介の元武士が家臣団に食い込んで行く為には何らかの後ろ盾があったのではないか?と勘ぐってみるわけです。そこで思うに道三の父、松浪元宗が土岐氏の家臣団の長井氏に入り込んだ経緯として近江六角氏の紹介のような物があったのではないだろうか?
また「武家において偏諱を授けるということは直接的な主従関係の証となるものであり、主君が自分の家臣に仕えている陪臣に偏諱を授けることが出来なかった」という不文律があり、道三の父・松浪元宗と六角氏との間に直接の主従関係があったのか?という疑問も残る。他家の家臣団の嫡子?道三が元服した際(長井秀龍とあるので長井姓の頃すでに一字拝領していた)に?六角義秀の秀の文字を一字拝領し秀龍と名乗ったとなると何か異様な感じがしてしまいます

楽市楽座について、歴史の授業では単純に信長が行った経済政策と教えられましたが、実は違います。

天文18年(1549年)に近江国の六角定頼が、居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが初見とされる。[1]また、今川氏真の富士大宮楽市も早いとされ、安野眞幸の分析では翌年の織田氏など以後の大名による楽市令などに影響を与えたとしている[2]。

織田信長は、自分自身が美濃国・加納、近江国・安土、近江国・金森に楽市・楽座令を布いただけでなく支配下の諸大名に伝達され、各城下町で実施された。

なお、制札(法令の発布)として、楽市および、楽市楽座の語句が確認できるのは、織田信長が初見であり、六角氏や今川氏は文書上で楽市の語句(楽座および楽市楽座の語句はなし)が確認できるのみであり、制札は発見されていない。


美濃に楽市・楽座を最初に取り入れたのは道三だが制度として最初に実施したのは六角氏であるらしい。ここでも道三の背後に六角氏が見え隠れしてる気がしてしまいますね。

参考資料
斎藤家 と 斎藤道三
日本史人物列伝
斉藤道三
斉藤道三 楽市楽座を作ったのはこの人
楽市・楽座
斉藤道三〔1〕
斉藤道三  美濃の国盗りを成した美濃のマムシ
斎藤道三

土岐氏
武家家伝_六角氏

斎藤と斉藤(齋藤と齊藤)は別の字
「齋藤」「斎藤」「齊藤」「斉藤」“サイトウ”姓がこんなにある理由

最近読んでいた本に北条早雲が出てきていて前々から気にはなっていたので情報を集めた覚書でも作ってみよう

北条早雲

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北条 早雲 / 伊勢 盛時(ほうじょう そううん / いせ もりとき)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている。通称は新九郎(しんくろう)。号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。伊勢家が北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱の時であるが、通例では伊勢盛時も遡って「北条早雲」と呼ばれる。従って、盛時の存命中に「北条早雲」の名が使われたことは一度もない点に注意する必要がある。

生年は長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに康正2年(1456年)説が提唱されて有力視されつつある。


出自について主なものでは、山城宇治、大和在原、伊勢素浪人、京都伊勢氏、備中伊勢氏というところであるが、最近では備中伊勢氏(伊勢新九郎盛時)が有力である。

伊勢新九郎は妹が駿河太守の今川氏に嫁いでいた縁で駿河に下ったのであるが
今川氏

今川氏(いまがわうじ)は、日本の武家。本姓は源氏で、家系は清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家・吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。

前述のとおり、今川家は、足利一門において名門とされ足利将軍家の親族としての家格を有し室町将軍家から御一家として遇された吉良家の、分家にあたる。「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われていたように、足利宗家(室町将軍家系統と鎌倉公方家系統)の血脈が断絶した場合には吉良家とともに足利宗家と征夷大将軍職の継承権が発生する特別な家柄であったとも伝わる。吉良家からは守護および管領や侍所所司が1人も出ていないのはこのためである(これらの役職は「家臣の仕事」であり、足利宗家の継承権を持つ家の者は管領などに任じられる身分ではなかった)。その准将軍家である吉良家の分家今川家の当主今川範政は実際に朝廷から征夷副将軍に任じられ、その子範忠は永享の乱の戦功によって室町将軍家から彼とその子孫以外の今川姓の使用を禁じるとする「天下一苗字」の待遇を受けた。


このように今川氏と言うのは足利幕府において特別な家系なのである。
今川氏の正妻として迎えられた北川殿の家系が氏素性も定かならぬ~などという事があるだろうか?

兄弟である伊勢新九郎こと北条早雲が、長寿で伊勢の素浪人からの下克上の端緒の大器晩成型の戦国大名と見られていた時代には、北川殿は、宗瑞の妹であり今川義忠の側室と伝えられていたが、近年研究により出自が室町幕府の申次衆・奉公衆をつとめる伊勢氏であって、今川氏と婚姻する家格としては釣り合いが取れていることと、義忠に他に正室にあたる女性の記録がないことから正室であり、早雲の生年が永享4年(1432年)よりも康正2年(1456年)が有力になってきたことから姉と見なされるようになった。


ここで言う伊勢氏という家系は

伊勢氏は、桓武平氏維衡流を称する氏族。室町時代には政所執事を世襲した。江戸時代には旗本として仕え、武家の礼法である伊勢礼法を創始、有職故実の家として知られた。

鎌倉時代末期の当主、平俊継が伊勢守となって以降伊勢氏を称した[1]。南北朝時代に俊継の孫伊勢貞継が政所執事となって以降、政所執事を世襲するようになった。伊勢貞親は8代将軍足利義政の教育係を務め、政治にも大きな影響力を持ち、応仁の乱前後の情勢に大きく関与した。貞親の子の伊勢貞宗、孫の伊勢貞陸は台頭する細川京兆家の細川政元と協調し引き続き幕政に重きをなした。

貞陸の孫の伊勢貞孝とその子伊勢貞良は12代将軍足利義晴と13代将軍足利義輝に仕え、義輝の代に細川氏の没落後台頭した三好長慶と共に幕政を壟断したものの、長慶と対立し失脚したため勢力を弱めた。しかし足利義昭が織田信長とともに上洛してくると、貞良の子・貞為と貞興は幕府に仕える。貞為は病弱だったため家督を貞興に譲った。

伊勢貞興は義昭の備後下向には従わず、以後明智光秀の与力となる。本能寺の変では貞興は明智勢として二条御所の織田信忠を攻め滅ぼしたが、最終的には山崎の戦いで羽柴秀吉勢に敗れた。江戸時代には貞興の兄の子・伊勢貞衡が旗本として徳川家光に仕え、その子孫はまた礼法の家として明治まで続いた。貞衡の孫・伊勢貞丈は特に有職故実に通じ、伊勢礼法を大成した。


つまり

江戸時代前期までは後北条氏は名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが、江戸時代中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「下克上の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、明治時代になって定着し、戦後まで続いた。その下克上の代表として北条早雲、斎藤道三、豊臣秀吉が語られ、早雲は身分の低い素浪人とすることが通説となった。


通説として殊更に身分の低い者からのサクセスストーリーとして形成されたという事だったらしい。

また、後北条氏の記述により抜粋すると

後北条氏(ごほうじょうし、旧字体:後北條氏)は、関東の戦国大名。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる伊勢盛時(北条早雲)(1432年/1456年-1519年)をその祖とする。正式にはただ「北条氏」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから[1]、後代の史家が両者を区別するため伊勢平氏の北条氏には「後」をつけて「後北条氏」と呼ぶようになった。また居城のあった小田原の地名から小田原北条氏(おだわらほうじょうし)とも呼ばれる。

通字は「」(うじ)。代々の家督は御本城様(ご ほんじょう さま)と呼ばれ、「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言であった。家紋の三つ鱗は桓武平氏の定紋・揚羽蝶に準じる替紋で、北条・伊勢の両氏に共通する。後北条氏では家督がこの三つ鱗の高さを低く変形させた北条三鱗を定紋としている。


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北条三鱗と揚羽蝶

「祿壽應穏(禄寿応穏)」と刻銘された「虎の印章」を使用した。これは「禄(財産)と寿(生命)は応(まさ)に穏やかなるべし、領民全ての禄を寿を北条氏が守っていく」という政治宣言は、早雲が残した家訓・早雲寺殿廿一箇条の中にある「上下万民すべての人々に対して、言半句たりともうそをいうようなことがあってはならぬ。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。うそをいっていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れがいった言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにもうそはいわぬように心掛けなくてはならぬ。」にもよく現れている。これなどは今の政治屋さんにも肝に命じて見習って欲しい言葉ですね。

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スタンプPON_PONコレクターへの道様より拝借

彼の政治で特徴的だった物として租税の安さという事も挙げられるのではないだろうか?
当時の税率は「五公五民」や「六公四民」が当たり前だったというのに、それを「四公六民」にまで下げたのだ。応仁の乱によって、民たちが路頭に迷う様を間近に見てきた彼ならではの政策といえるだろう。
その為であろうか?100年後の徳川家康も関東移封後に統治に手を焼くくらい領民に慕われることになったのだ。

早雲の度量の大きさを示す逸話もある
北条早雲

ある時、小田原で馬泥棒が捕まって、その者の裁判に、早雲も立ち会うことになった。
 この馬泥棒が、なかなか肝っ玉の太い奴であった。役人の尋問に対し、
「確かに俺は馬泥棒だよ。殺されても文句は言えんさ。だけど、俺の目の前には、国泥棒が何食わぬ顔でいる。国泥棒に比べたら、馬泥棒なんて、ずいぶん軽い罪だよ」
 と、言ってのけたというのだ。
 馬泥棒の弁に、ブチ切れるかと思われた早雲だが、なぜか、ワッハッハッと大笑い。
「あんたの言う通りだ!」
 と、その馬泥棒を、そのまま釈放してしまった。
 この話を聞いた早雲の領民たちは、彼の度量の広さに、ますます感服したという。



参考資料
北条早雲
小田原市 | 北条早雲
北川殿
名将列伝-北条早雲
後北条氏
北条早雲
北条幻庵
スタンプPON_PONコレクターへの道
伊勢氏

先日、友達と喋っていて韓国の話になりました。
元のネタは、「盗難の長崎の重文 韓国の国宝と「酷似」 外務省が調査依頼へ」の件

松本剛明外相は22日の衆院外務委員会で、日本の寺院から盗難された国指定の重要文化財と「酷似」した文化財が韓国で国宝に指定されているとして、韓国政府に調査を依頼する考えを示した。

 文化庁によると、盗難されたのは長崎県・壱岐島の安国寺が所蔵していた国指定の重文「高麗版大般若経」。平成6年7月に何者かに盗まれたが、7年6月に酷似した経典が韓国で「発見」され、国宝に指定された。文化庁が写真などで確認したところ特徴が一致し、外務省を通じて韓国側に調査を依頼したが、「確証がなく調査は困難」との回答で、そのまま13年7月に時効となった。

 松本氏は「日本の極めて重要な文化財にかかわりうることなので韓国政府の協力を得るべく改めて照会を検討したい」と述べた。自民党の平沢勝栄衆院議員の質問に答えた。


で、なんだかなぁ~って気分になってたところだったんですが、その話の流れの中で、「そういえば、ハルビンで伊藤博文を暗殺したことになってる、安重根っていたけど、実は暗殺したのは別人らしい」って話を思い出して、その話をしていたのです。

大雑把に言うと
1:安重根が「拳銃」を発射したのは「ロシア儀仗兵の股下」から
2:伊藤に致命傷を与えてる傷は「斜め上から」3発
3:「弾痕数が多い」(拳銃の弾数よりも多い)
4:後の裁判記録で安重根は「死刑にすることが先に決められていた
5:実行犯グループの「他メンバーは釈放」されている

ここで、言われている事は
1:実行犯グループの釈放されたメンバーは実は伊藤暗殺の真犯人グループに内通していた、またはそもそもスパイであった
2:安重根を伊藤暗殺に向かわせた、またはその計画を知り真犯人グループに計画を伝えていた
3:真犯人グループは安重根の犯行計画を利用して、伊藤暗殺を決行することを計画した
4:安重根の発射した弾は、伊藤には当たっていないが、真犯人グループのスナイパー(狙撃銃の弾が発見されてたはず)がそれに併せて射撃し、伊藤暗殺を成功させた

当時、「伊藤は日韓併合に反対だった」事実と照らし合わせても、安重根の犯行は意味不明(理屈がぶっこわれた上での犯行とも言われてるけど)

その後の経緯から見ても、長州閥同士の主導権争いと、伊藤が邪魔だった山縣有朋系の派閥が黒幕だろうといわれていますが、それについての記事がどっかにあるかな?と思って探してたんですね。

それで見つけたのが
山県有朋と長州暗流-未完の維新論④

勝は日清戦争に反対だったが、実は明治天皇も反対でした。明治天皇は戦勝後にも大いにムクレて、「これで国策を誤った。朕は国家と天皇家の祖霊に対して、申し訳が立たない」と嘆き、伊藤博文らを責めています。ところでなんと首相の伊藤もまた戦争には反対でした。つまりは外相・陸奥宗光と参謀総長・川上操六が暴走したということらしいが、天皇も首相も反対なのに「勅令」が出て戦争になるのだから、面妖きわまりない話です。しかも陸奥や川上は処罰もされない。
 実は陸奥・川上らのバックには山県有朋がついていて、彼は伊藤も天皇をもすでに圧倒する権力を確立していたのです。今編①でも述べたよう、明治帝国はその後期には、実質「長州=陸軍=山県王国」となっていたのです。



幕末の明治維新で真に国を憂えて戦った人物達はどんどん死んでいき、生き残った人物が明治維新を変質させていったという話です。また、維新前後の歴史を操ったといえば大げさですが、そういうことになるのが英国貿易商人のグラバーです。
グラバー商会はなくなりましたが、グラバー自身は後に、岩崎弥太郎が興した三菱の相談役という形に収まってます。岩崎が設立したのが、後の麒麟ビールで、岩崎やグラバーが坂本竜馬と懇意だったことを意識して、麒麟のデザインを採用したのでは?と言われています(正確ではないけど、頭が龍で体が馬)
※麒麟のデザインと竜馬の関係については「キングコングのあることないこと」で裏取りしたところ△でした

それはそれとして、歴史上の美談などというものは、表面的なものであったり創作であったりするものがほとんどです。勝者の理論や、勝者側の余裕から敗者側に有終の美を飾らせるよなものだったりします。その皮を破って中を覗き込むと、なかなかにしてドス黒いものが渦巻いているもので怖いですね。
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ねおち

Author:ねおち

北海道帯広市出身
愛知県岡崎市在住


【略歴】
北海道帯広柏葉高等学校卒業
空手家

水商売からCocktail&PastaのBar経営を経てプログラマーへ転身
現在は年中夢求


趣味:PCいじり、読書(主に歴史関係)

錬心舘空手初段、銃剣道初段



「六月火雲飛白雪」
世の中の常識というものにとらわれてはいけない。
 『夏の雲が雪を降らせる』というほどの自由自在の考えを持つことも時には大切である。
そう思いつつなかなか出来ないねおちの日々思ってることなど。

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