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大澤良貴氏の記述を転載

漢帝国滅亡の直接の引き金を引いたと言っても過言ではない、184年に勃発した太平道の乱。いわゆる黄巾の乱ですが、太平道が計画していた国家転覆計画の戦略性の高さに驚かせられます。

この乱において太平道は184年の2月に青州、徐州、豫州、幽州、冀州、荊州、揚州の八つの州で一斉に蜂起していますが、これだけでも当時の交通、通信手段を考えれば驚くべき、「同時多発」ぶりではないでしょうか?なにしろ正規軍ですら「軍隊が多方面から同時に行動する」という事自体が困難であった時代であり、後に曹操、司馬懿、諸葛亮などが、なんとか試そうとして上手くいかず、鐘会の時代になってようやく多方面での侵攻作戦が可能になったというような時代です。

いったい、どうして彼らが同時多発蜂起可能にしたのか?まず一番わかりやすい機密として、彼らの掲げたスローガンが挙げられます。

「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉」まさに184年の甲子の年に蜂起する事を予言にみせかけたメッセージとして彼らは信者たちに周知させ、さらに貧困や天災、不安定な政情などで不安定になっている人心に「甲子の年に何かが起こる!」と期待感を煽っていたわけです。彼らが一斉に蜂起し、その勢いが瞬く間に広まっていったのも、信者たちの意思の統一、民衆たちの期待感などで、十分に布石が打たれていたわけです。

(追記に続く)

しかし、それだけでここまで足並みが揃うはずもありません。後述しますが、太平道の計画はその始まりで一旦つまづいており蜂起の時期を前倒しにしてしまったという経緯があります。本来ならば「時は甲子」なら、年だけではなく日付も甲子にしたほうが判りやすいですし、予言の効果も高いというものです。実際、彼らは甲子の日、つまり3月5日に蜂起する事を計画していたのですが、その計画は崩れ彼らは2月に蜂起しています。

それでもなお、ここまで大規模な一斉蜂起が可能であったのは、まず彼らの組織力が挙げられるでしょう。太平道は信徒たちを”方”という単位で、大方は1万人余り、少方は6~7千人、というように分けて編成しています。これら”方”を渠師と呼ばれる指導者たちに率いさせて教祖である張角の指令が行き届くように組織を整備しているわけです。この”方”が蜂起当初で36も存在しており、それが各地に配置されていたのです。まさに1万単位で反乱組織が各地に分散配置されていたのですから、下手な反政府ゲリラなど及ぶ所ではない大規模な反政府組織がすでに存在していたわけです。この時点で、太平道が”黄巾賊”などという五感でイメージされる”烏合の衆”的な集団とは大きく掛け離れた、一大反政府組織であった事が伺えます。

地方での反乱だけではありません。彼らは蜂起の前段階として馬元義という人物を宮中に派遣して、当時の宮中において政権の中枢を担っていた宦官たちに接触しています。

元々、太平道は于吉が編纂した『太平清領書』を経典とする道教の一派として張角が興したものです。この于吉が広めた道教は、まず後漢末期の政変が続く不安の中で、宮廷内に広まっていたのです。濃密に儒教的倫理観で運営されていた後漢という帝国が政権担当能力を失っていくにつれて、儒教もなた影響力を失っていきます。そんな中に儒教に替わる価値観として見出されたのが道教でした。

『太平清領書』は宮崇、襄楷と二度に渡って帝に献上され、当時の皇帝であった桓帝はこれを取り上げなかったものの、桓帝自ら老子を祀るなどして道教を半ば認める行動をとっています。実際、儒教によって成り立っていた社会はすでに行き詰まっており、道教という新たな倫理や価値観に期待を持った者は多く、まず宮中の知識人たちがこれに傾倒していったのです。さらにもっと濃厚に道教の倫理観が普及する事を願っていた者たちがいます。

それは当時、後漢成立時からの宿痾であった帝の外戚たちによる政権支配を打倒し、政権を握っていた宮中の去勢奴隷である宦官たちです。彼らは”子を生み、祖先より続く社稷を子孫に受け継いでいく”事を最大の道徳とする儒教においては、まさに「人倫にもとる」存在であったわけです。馬元義はこの宦官たちに接触し封諝や徐奉といった宦官たちの協力をとりつけます。また、その背後には当時牽制を誇っていた十常侍の巨魁張譲の存在すらあったのです。こうして、地方での一斉蜂起と宮中工作によって、一気に漢帝国を転覆してしまおうというのが、彼ら太平道の計画であったわけです。

この組織力といい宮中へのパイプといい、太平道は「教祖張角の下に民衆たちが集まった」というような組織ではなく、当時の知識人階級たちが数多く協力していた節が見受けられます。実際、宦官だけでなく洛陽の士大夫たちも道教の思想に傾倒する者は多かったのですが、さらに拍車をかけたのが167年、169年と二度に渡って繰り返された宦官による士大夫弾圧、いわゆる”党錮の禁”でした。

これによって公職を追放されたり、地方に逃亡した士大夫たちが数多く太平道に加わったと思います。当時は、宮中において士大夫たち「党人」たちは公職に就く事を法令で禁止されてしまったわけですから、その中のかなりの数が「国を変えねばならない」と考えたのも無理ないでしょう。というのも、ちょうどこの時期に巨鹿の一教団に過ぎなかった太平道が急速に拡大し、組織化されて、思想が国家転覆へと先鋭化していくのです。おそらくは、党錮の禁によって弾圧された士大夫たちインテリ層が、太平道を組織化して宮中へのパイプを作ったのでしょう。

このように太平道の反乱とは、災害や異民族の侵入、政府の内政担当能力の欠如などによる民衆たちの不安、儒教という倫理観の行き詰まり、儒教では存在を許されない宦官たちの自己救済、党錮の禁によって地方に追放された知識階級たちの不満など、上層階級から下層階級まで全てを含めた「大変革」を求める声を反映した反乱であたっという事が言えるでしょう。

しかし、彼らの計画はまず馬元義の宮中工作が、宦官唐周の裏切りと密告によって露見し、馬元義は捕縛され処刑されてしまいます。またこれにより張角の太平道が反政府組織であることが判明し、宮中や各省庁、軍中で張角を信仰していた者たち千人もの人々が殺害されます。さらに張角捕縛の命令が下されたため、張角たちは3月の予定であった蜂起を前倒しして、2月に各地で蜂起したのです。

宮中工作は失敗したものの、すでに漢帝国の組織は硬直化しており、当時は宦官たちによる党錮の禁によって士大夫たちは政権から外され、緊急事態に対応できる人材が枯渇していたのです。このため対策のとられぬまま各地で蜂起した太平道の者たちは地方の官庁を襲い、動乱は全国的に広がるばかりでした。

3月になって何進が大将軍となるとともに党錮の禁が解かれて士大夫たちが、軍事や政治に復帰するようになって、ようやく漢帝国は太平道に対して反撃体制を整えます。

まず洛陽を防備するために新たに7つの軍が編成され、元々あった軍と合わせて8軍の防御体制を整えます。さらに盧植に教祖張角のいる冀州太平道の討伐に向かわせ、皇甫嵩と朱儁を潁川に向かわせます。このうち重用なのが潁川で活動する太平道軍で、この軍こそが正面から洛陽を攻略するための主力軍でした。

この潁川の太平道軍を率いる渠師波才は、緒戦において皇甫嵩、朱儁の軍を討ち破り、逆に討伐軍を長社において包囲してしまいます。この戦いに敗れれば、太平道軍はそのまま洛陽まで進撃し、漢帝国は都を攻撃される事になりその威信は完全に失墜し、勢いづいた太平道の前に屈したかもしれません。その意味で、この長社の包囲戦は歴史のターニングポイントのひとつであったのです。

長社で包囲された皇甫嵩ですが、5月になって彼は太平道の軍が草原に展開しているのを見て、夜陰に乗じて火攻めを行ったのです。これに皇甫嵩の増援として到着した騎都尉の曹操が、火計で混乱する太平道軍に突撃して、これを壊滅させたのです。この戦いにおいて、皇甫嵩、朱儁、曹操の率いる漢帝国軍は首級数万という大戦果を挙げて、英戦太平道はほぼ壊滅させる事ができたのでした。

これにより洛陽失陥の危機を乗り越えた漢帝国軍は、一気にこの戦争の主導権を取り返します。盧植の向かった冀州においても、官軍は盧植の適切な指揮の下連戦連勝し、ついに張角を広宗に追い詰め包囲します。しかし、ここで突然宮中のゴタゴタから盧植が罷免され、冀州方面の討伐軍には董卓が任命されることになります。この頃すでに漢を見放していた董卓は、この戦いでまったくやる気を見せず、6月には太平道の反撃を受けて敗退、彼も罷免されますが冀州において太平道の勢力は回復してしまいます。

さらに荊州の南陽においても長社の戦いで破れた潁川太平道の残存勢力と荊州太平道が合流し、宛に集結し、さらに7月には漢中において道教の一派である五斗米道が蜂起して漢中を占拠しており、再び太平道の勢力が復活していったのがこの時期です。

しかし、これに対し荊州太平道の討伐を命じられた朱儁は、配下の孫堅とともに宛城を包囲して、数ヶ月に渡り包囲戦の後に宛を攻略。その後も荊州太平道は抵抗を続けるが11月には、この掃討を終了させています。

さらに冀州方面においては董卓に替わって皇甫嵩が赴任し、一転して戦局が官軍に傾きます。皇甫嵩は各地で連戦連勝し、またもや広宗に太平道を追い詰め包囲します。どうやらこの時期にすでに教祖である張角が病死していたようで、翌158年1月に広宗に籠城する太平道は降伏し、これによりひとまず太平道の乱は終息したということになります。

とはいえ、その後も各地に太平道の残党は活動しており、漢中もまた依然として五斗米道に占拠されたままとなっているのですが、これらを討伐する余力は漢帝国にはもはや残されていなかったのです。

一年に渡る太平道の反乱により、漢帝国は地方に対する影響力を大幅に失い、地方の豪族たちは割拠体制をとって軍閥化していくようになります。その意味では、太平道の乱は漢帝国を潰すという目的を半ば達したと言うこともできるでしょう。一報、後に青州に残った太平道と漢中の五斗米道は、魏を興した曹操によって吸収され、漢の後に成立した魏において道教は国教化していくのです。

そういった目で見ると、この大乱において漢帝国と太平道のどちらが本当の勝利者であったのか?なかなか判断が難しいと言えなくもありません。
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