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×日韓がタブーにする半島の歴史

竹島問題で世間が騒がしくなっていますね。

日韓がタブーにする半島の歴史 (新潮新書)
一昨年くらいだったかなぁ?たまたま書店で見かけて購入。
何度も読み返してる本の一つで、このところまた読んでます。

著者:室谷克実(むろたに かつみ)
1949(昭和24)年東京生れ。慶應義塾大学法学部卒業。時事通信社入社。政治部記者。ソウル特派員。宮崎、宇都宮支部各支局長。「時事解説」「時事評論」「地域づくり」各編集長。
2009年定年退社。主な著書に『「韓国人」の経済学』『朝鮮半島』。

帯の記述より
古代日本は朝鮮半島から稲作などの先進文化を学び、国を発展させてきた―――という<定説>は大嘘である。半島最古の正史『三国史記』には、新羅の基礎を造ったのは倭人・倭種、中国の『隋書』には、新羅も百済も倭国を文化大国として敬仰していたと明記されているのだ。日韓古代史の「常識」に異議を唱え、韓国の偏狭な対日ナショナリズムと、日本のあまりに自虐的な歴史観に歪められた、半島史の新常識を提示する。


内容はかなり論理的で面白い。
本作中に出てくる『三国史記』とは、勿論中国の『三国志』とは別物である。
wikipediaの記述から抜粋してみよう。
三国史記

『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代新羅高句麗百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。

全50巻の目次は以下の通り。
本紀: 巻1~巻28
新羅本紀: 巻1~巻12
高句麗本紀: 巻13~巻22
百済本紀: 巻23~巻28
年表: 巻29~巻31
雑志: 巻32~巻40
祭祀、楽: 巻32
色服、車騎、器用、屋舎: 巻33
地理: 巻34~巻37
職官: 巻38~巻40
列伝: 巻41~巻50

朝鮮側の資料として『古記』、『海東古記』、『三韓古記』、『本国古記』、『新羅古記』、金大問『高僧伝』、『花郎世記』などを第一次史料として引用したことが見られるが、いずれも現存していないため、その記述の内容には史料批判が必要である。また、中国の史料と朝鮮の史料が衝突する場合には朝鮮の史料を優先している箇所もあるが、前記の史料の信用性に疑問があるため、慎重な取り扱いが必要とされる。日本では中国史料と対応する記事が認められない3世紀頃までの記事は、にわかには信じがたいとする考え方が主流である[1]。また、天変記事(ほうき星など)については中国史書と年月を同じくする記述も多い。
三国における史書としては、高句麗には『留記』・『新集』、百済には『日本書紀』にその名が確認される百済三書(『百済本記』、『百済記』、『百済新撰』)、新羅にも国史を編纂させたという記録があるが、いずれも現在は存在が確認されていない逸失書であるため、記述内容を確認できない部分も含まれている。


これと併せて資料とされているのが『三国遺事』である。
半島に現存する史料としては『三国史記』に次いで古いものである。
こちらもwikipedeiaの記述から抜粋してみよう。
三国遺事

『三国遺事』(さんごくいじ)は、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃であり、一然の没後に弟子の無極(宝鑑国師の混丘)が補筆・署名し、刊行されたと見られる。
朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に次ぐ古文献ではあるが、由来の怪しい古書を引用するなど、史書としての問題点は少なくない。しかし、三国時代及びそれ以前の朝鮮半島の歴史を記した資料は極めて乏しいということもあって、『三国史記』と並んで朝鮮半島古代史の基本文献として扱われている。また、『三国史記』が名だけを留めて収めなかった郷歌(きょうか、ヒャンガ)を14首伝えており、言語学資料としての価値も高い。

官撰の『三国史記』は儒学者である金富軾の編纂になるものであって、その姿勢はあくまでも中国史書の書式(紀伝体)に忠実であろうとしたために、三国時代の故事・伝承が数多く削り落とされている。またその当時利用が可能であった中国の書籍を資料として利用しているため、例えば卑弥呼の記載があるなど不自然な点もある。特に新羅の立場から編集しているため利用には注意を要する。金富軾の編集態度に不満を抱いた一然は、『三国史記』が取りこぼした故事を拾い集め、また自身の禅僧としての立場から仏教の普及に関わる事実とをあわせて収録しようとした。正史からこぼれ落ちた説話などをかき集め整理したものとして遺事と称したが、ただ単に『三国史記』を補おうとする位置づけではなく、「王暦」末尾の中国諸王朝についてを記さずに宋(南宋)で終えて大宋と記し、紀異篇の最初に檀君を記しているなど、一然が編纂にあたった当時の元の支配に反対し、民族の自主独立を掲げようとする姿勢も見せている。

巻一:王暦・紀異
巻二:紀異
巻三:法興・塔像
巻四:義解
巻五:神呪・感通・避隠・孝善


この二冊の文献は日本で言うと『三国史記』≒『日本書紀』、『三国遺事』≒『古事記』に相当する
これらと併せて『後漢書』『三国志』『隋書』などの史料を併用し、現在常識と思われている事に異議を唱えるというのが本書の趣旨である。

目次を抜粋してみる。

序章  陛下の「お言葉」ではありますが
第一章 新羅の基礎は倭種が造った
第二章 倭国と新羅は地続きだった
第三章 国民に知らせたくない歴史がある
第四章 卑怯者を祀るOINK
第五章 「類似神話」論が秘める大虚構
第六章 「倭王の出自は半島」と思っている方々へ
終章  皇国史観で歪められたもの

特にσ(o・ω・o)が興味を持ったのは「第二章 倭国と新羅は地続きだった」です。
この記述がある程度でも実証されたら、邪馬台国論争にも決着が付きそうなんですよねー。

倭国之極南界也
『後漢書・東夷伝』の記述
「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、……倭国之極南界也、光武賜以印綬」
(倭奴国が奉貢朝賀した……その国は倭国の極南界にあり、光武帝は印綬を賜った)
この印綬というのが志賀島で発見された「漢委奴国王印(金印)」の事である。

ここで著者の見解
・『日本書紀』『古事記』は基本的に「近畿王朝の史書」である
・別に「北九州王朝」があり、こちらが早い時期に漢と通じていた
・近畿王朝の史書である『日本書紀』にこの時期に倭と新羅の国交記録がないのは当然

著者はこれを「倭国」という連合国家の名前の前段に「倭奴国」があり、金印は「委奴国」。
これをそのまま読めば、『後漢書』は「倭奴国=委奴国」として扱っている。
つまり「九州北部=倭国の極南界=倭奴国=金印を賜る本国」ということである。

其の北岸の狗邪韓国
『魏志倭人伝』の記述
「従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里、始度一海、千余里至対海国」
(郡より倭に至るには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)をへて、あるいは南し、あるいは東し、其の北岸の狗邪韓国に到着するまで七千余里。初めて海を渡ること千余里、対馬国に至る)
これは「倭人伝」の中の記述なのだから、素直に読めば「其の北岸の狗邪韓国」の「其の」とは「倭」を指すのは当たり前の事である。

通説では、この訳文は以下のようになっている。
「郡から倭にいたるには、海岸に沿って水行し、韓国をへて、あるときは南し、あるときは東し、倭から見て北岸の狗邪韓国にいたる」

*原文には「倭から見て北岸」なんて記述はどこにもない
*「狗邪韓国」は『魏志倭人伝』の表記だが、『魏志弁辰伝』には「弁辰狗邪国」とあり、また『三国史記』では、「金官国」、『三国遺事』では「駕洛国」、『日本書紀』では「南加羅」と表記されており、現在の韓国金海市を中心とする地域を指す
*一里の距離が曖昧だが、『三国史記』では随里(約450m)、朝鮮里(約400m)、『三国志・魏志倭人伝』では短里(約75m)など混用されている可能性がある

その他の史料
『旧唐書』の記述「倭国者古倭奴国也」
『新唐書』の記述「日本古倭奴也」
『唐会要』の記述「(倭国・日本とは)古倭奴国也」

旧倭奴国が半島南部から九州北部に及んだ連合国家であったのもが、後の失策等によって半島での足場を失い、「倭国」とは旧「倭奴国」だけを指す名称に変質していった為に「現在の倭国とは、昔の倭奴国である」と記述されている。

余談
磐井の乱

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱または王権間の戦争。この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがあったと見られている。
磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』逸文(「釈日本紀」巻13所引)や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』(「先代旧事本紀」巻10)にも簡潔な記録が残っている。
なお、『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、また『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとしてその全てを史実と見るのを疑問視する研究者もいる。


俗説とされてはいるが

当時、北九州にはすでにヤマト王権とは別個の政権(倭国政権:九州王朝)があった。中国で言う倭王とは実は磐井王のことで、倭国政権すなわち九州王朝では独自の元号(九州年号)や外交主権等を持ち、むしろ倭国政権に対して反乱を起こしたのは外交権を独占しようとする継体(畿内ヤマト又は九州内の豪族)側だったとする説(九州王朝説)がある。この説は、当時の日本においてヤマト王権が九州を含む統一王朝であったことを疑問視し、むしろヤマト王権よりも磐井政権の方が日本における有力政権だったと見なすものである。
ただし、古田武彦はこの説を取り下げた。そのため、多元王朝説ではこの乱自体を造作とする。


纒向遺跡の出土状況は、北陸~中国地方までの土器が最初に集まり、最後に北九州の土器が合流したということを示している。
漢と交渉を持ち朝鮮半島南部までを領有していた旧邪馬台国=倭奴国の王族がこの磐井であり、この征伐により近畿王朝が北九州王朝を飲み込んだということが真相な気がする。

σ(o・ω・o)の想像で根拠はない
『日本書紀』に「新羅征伐のために派遣された倭将が、新羅の意を受けた二人の美女を献じられ誑かされて、加羅(任那)を討ってしまう」という記述がある。
加羅は鉄の産地として有名でありそこを領有していた北九州王朝が鉄を独占していた。
近畿王朝は、新羅を圧迫しつつ加羅を奪い取りたかったのではないだろうか?なのに新羅の献女外交に誑かされて支離滅裂な事をやってしまった失策がこの記述だと想像する。
これによって、朝鮮半島南部の足がかりを失った北九州王朝は国力を低下させていき、近畿王朝は新羅の交渉によって鉄の権益を獲得して力を付けていったという見方ができるのではないだろうか。

この新羅が後に三国(百済・高句麗)を統合して統一新羅王朝ができ、一時分裂、山賊が建てた国である高麗が再統一。高麗が正統王朝であると主張する為に書かれた正史が『三国史記』であるから新羅の歴史が中心であるのは当然だろう。魏を継承した晋が編纂した『三国志』も「魏」の歴史を中心として描いているのと同様である。
中国・韓国の正史とは正しい歴史書という意味ではない
現王朝が存在することを正当化するために書かれた歴史書が正史である

長くなってしまったので今日はここまで。

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